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藤原武智麻呂の墓と栄山寺(五條市)

中臣(藤原)鎌足の孫であり、不比等の嫡男でもあった、藤原武智麻呂。今回は、偉大な祖父と父の血を受け継いだ、藤原南家の祖・武智麻呂が眠る地を訪れてみた。

藤原武智麻呂の墓へ行く前に、栄山寺に立ち寄ってみた。719(養老3)年、武智麻呂によって創建され、以後は彼の菩提寺として今に伝わる。国宝に も指定されている梵鐘は、平安三絶の鐘と称され、同じく国宝の八角円堂は、息子の仲麻呂(恵美押勝)が、父母追善供養のために建立したもの。 栄山寺の住職、辻本良尊さん(86)に、武智麻呂の墓へ行きたいと伝えると、「急な山道だから大変だよ」との助言。この時は「まあ、大丈夫だろう」と軽く 思ったが、大きな間違いだったと知るのは、もう少し後。静かに寺内をめぐり、しばし往時に思いを馳せることを楽しんだ。栄山寺は、桜や山吹、雪柳など、花 の時期がきれいだとのこと。風情ある寺に、きっと映えるだろう。

遊歩道への入口に立ち、いざ武智麻呂の墓へ。栄山寺を左下に望みながら、足取り軽く登り始めたのも束の間、登れども登れども行き着かず、かなり不安に。息も絶え絶え、相当登ったところで、ようやく武智麻呂の墓を見つけた。 645年、中大兄皇子とともに乙巳の変にかかわった祖父、中臣(藤原)鎌足。その後、藤原姓を自分の血筋のみに限ると認めさせ、ときの朝廷で権力をほしいままにした父、藤原不比等。その不比等の長男である武智麻呂(南家)への期待は、いかばかりであったろうか。

不比等にはほかに、次男・房前(北家)、3男・宇合(式家)、4男・麻呂(京家)がいたが、最初に参議にとり立てられたのは、弟の房前。のちに追い越し、藤原家嫡男としても、南家の祖としてもゆるぎない地位に登りつめるが、この時点ですでに将来の北家の躍進が伺い知れる。 やり手の父と弟に挟まれ、それでも温厚な人柄であったとも伝わっている武智麻呂。737年にあっけなく天然痘で亡くなるが、長屋王の変を推し進めたのも兄弟4人であったなら、亡くなるのもまた兄弟4人、それぞれが後を追うようにであった。 奈良朝でも激動の時代、さまざまなプレッシャーに囲まれて生きたであろう武智麻呂に、歴史の悲哀と人間味を感じる。 来た道を引き返すのも、かなり大変だった。次回来るならば、2人以上で、軽装で行くのがベストと痛感。しかし、武智麻呂にとっては、静かな眠りを妨げられぬ地でよかったのかもしれない。(康)

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栄山寺八角円堂。剥落がはげしいが、
内部の壁画は往時を偲ばせる

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武智麻呂の墓。意外にこじんまりとした墓に、武智麻呂の人柄がわかるような気もする

地図

栄山寺

五条市小島町